明治豊文堂について

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 明治豊文堂はちりめん絵・ちりめん本を初め、著名画家の絵と挿絵本などを取り扱っております。

ちりめん本は、ほぼ全面的に海外に輸出されたので、国内ではめったに見られず、欧米諸国の古書店や骨董市場に出回るだけだったので、日本の美術館・図書館などが昭和の後期からこれらを逆輸入し、ある程度は世間に知られていますが、本来のちりめん絵となると、百人はおろか千人に一人も実物を見ていないのが実情です。

 その理由は、残存する作品の数が極度に少ないことであり、ちりめん絵の歴史を概述した藤村忠範氏はその状況をこう記しています。

 「縮緬絵が、まとまって国内のどこかに所蔵されているという例を、筆者は寡聞にして知らない。毎年、少なくとも万の単位で流通している浮世絵の市場でも、ごくたまに見かける程度である。」(「ゴッホと浮世絵 タンギー爺さん」20頁 山口県立萩美術館・浦上記念館 2001年発行)

 このように、ちりめん絵は「万に一つ」に近い希少品であるがゆえに、それを大規模に収集して整理・研究することが誰にもできず、ちりめん本が内外で高い評価を確立した反面、江戸期から制作された本来のちりめん絵は、その実態が不明のまま推移し、今日までほとんど世の注意を引くことが無かったのです。

 

 

ちりめん絵とは

 ちりめん絵というのは、普通に摺った版画(浮世絵など)を揉み台などの道具によって縮めたもので、手触りと見かけが織物のちりめん(縮緬)に似ているので、この名称が用いられ、海外でも”縮緬”を意味する単語を当ててcrepe(英)、crepon(仏)、Krepp(独)などと呼ばれます。

 ちりめん絵は江戸中期に現れましたが、元絵の60~70%に縮小されていたので見栄えがせず、幕末まではごく少数の作品が制作されただけでしたが、1867年のパリ万博と明治維新による国際通商の発展に伴って海外では普通の浮世絵のみならず、揉まれた紙のちりめん絵の人気が高まり、そのため明治期に入ってから特に外人用としてちりめん絵の需要が急速に増大しました。

 また、明治中期(1885)に長谷川武次郎が美麗なちりめん絵を表紙と挿絵に用いた日本昔話シリーズを英・仏・独その他の外国語に翻訳して出版したのが大当りとなり、その後、彼は多数の高度に芸術的なちりめん本を出版して1900年のパリ万博、1904年のセントルイス万博と連続して金メダルを受賞し、世界にちりめん本の魅力と価値を広く認知せしめました。

 

 

ゴッホの愛したちりめん絵

ゴッホは手紙の中でこう語っています。

「誰がどう言おうと、ぼくにとっては平板な色 合いのごく普通のちりめん絵(クレポン)がルーベンスやヴェロネーゼと同じ理由で素晴らしい。」(1888年9月テオ宛の手紙)

 ゴッホは日本の浮世絵に大きな影響を受けましたが、彼は普通の和紙に摺った絵でなく、「ちりめん紙」というちりめん織物のような細かいしわのある紙に摺られた「ちりめん絵」を特に愛好し、その特徴を自分の絵に生かそうとしていたのです。そのことは同時代の画家A.S.ハート リックの回想記にこう記されています。
 「(あるとき彼がゴッホの居室を訪ねると)イーゼルの上に“パリのローマ人”と呼ばれる絵がのっていた。これは黄色の絵シリーズの第一作だった。そのとき彼は特に「ちりめん絵」と称する多数の 作品、すなわち、ちりめん織のようなしわだらけの紙に摺られた日本の版画に私の注意を喚起した。彼がそれらに非常な関心を抱いていることは明らかだった。 そしてわたしは彼の口ぶりから確信したのだが、彼が自分自身の画法において狙っていたのは、画面の粗さを利用して油絵具のわずかな陰影からちりめん絵と似 たような効果を生み出すことであり、最終的に彼はこれをやり遂げたのだ。」(A Painter's Pilgrimage 1939 Cambridge 46p)
 このようにゴッホは世界の画家の中でただ一人、日本のちりめん絵がもつ独特の魅力と質量感の内実に触れ、それを自分の絵に生かそうとしたのです。アム ステルダムのゴッホ美術館にはゴッホが所有していた浮世絵コレクションが477点保存されていますが、その中には20点以上のちりめん絵が含まれており、 その一つは縦81×横38cmという巨大なもので実に華やかな極彩色の作品です。当店ではゴッホのコレクションに近い作品群を収集し、ちりめん絵の独特な魅力を世間に知らしめるべく努力しております。
 なお、ちりめん本の挿絵となっている版画は一枚一枚がちりめん絵そのものですから、サイズは小さくてもこれを通じてちりめん絵の色調と触感を味わうことができます。また、ちりめん本の挿絵には浮世絵とは別種の面白みがあり鑑賞の楽しみが増えてきます。

 

 

 

産業・貿易資料としてのちりめん絵

 ちりめん絵はそれ自体がオリジナルな美術品ではなく、原画を道具で縮小した一種の工芸品であり、もともと価値ある芸術品というよりも、実用品とされるちりめん紙の一種でした。ちりめん紙の加工には、「揉み台」と「型紙」と呼ばれる道具類が使われました。これは近代の日本人が発明した世界に類例のない産業用品です。 幕末に二代広重を襲名した重宣は、輸出用の茶の箱に貼る絵をたくさん書いたので、「茶箱広重」と呼ばれましたが、明治期に急増したちりめん絵の場合は、その大半が来日外人向けのお土産品と貿易用の包み紙、貼札、ナプキンその他の実用品として大量生産されたので、その性格上、大事に保存されることがなかったのですが、まったく浮世絵の二番煎じとして蔑視さるべきものでなく、明治の産業・貿易史の中で大きな役割を果たした優秀な加工品なのです。